草木染め手織紬..、それだけの言葉では、伝えられない存在感のある織物ではないでしょうか?
こちらにご紹介をさせて頂いた織物は郡上紬です。
眼にしたその時、まずは、この色に対して感情が何らかの反応をきたすかと思います。
「あざやか」とも違います..、「派手」でもない..、とりあえずは、お好みはどうであれ「綺麗」なんですが、やはり、単純な言葉では尽くせない色の感性を憶えるんです。
そして、<この色>に感性が揺れ動き、気持ちが惹かれるなら、きっと眼を凝らしてみてしまうと思います..、何に気持ちが惹かれているのかを探るかのように..。
紫色がとても印象的な織物です。そして、眼を凝らすと、様々な色が見えて来るし、想いの外にあった感動をも憶えるかもしれません。
眼を凝らしていると、印象的な”この紫”さえも心模様から失せて行くんですね。 他に眼に映ってくるものがある..、
赤い縞、黒い縞、黄色の縞、そして、緑、その太さや縞の質感は、一様ではない。
施された色彩のすべて..、そのひとつひとつを眼に追って行くと、気の遠くなるほど細密な縞までも織り込みながらも、計算された痕をみることがないんですね。
施された色彩、つまり”縞”は、どれも、曖昧な感覚を憶えるんです。
ただ、いい加減さと言うものは全くない。手掛けた織人の”やたら”な感性みたいなもので、色彩が並べられている..、と言った表現が近いかもしれません。
ちょっと気を取り直して、この郡上紬を眼にしてみると..、格子織の織物なんだと気が付きます。
紫と、その他のさまざまな色が、印象的なために格子織になっているとは直ぐに気が付かない。
いや、そもそも、格子織の織物として織られた訳ではないのかもしれない...、郡上紬には、確かに、格子織があります。
でも、単純な「格子」そのものを主体とした織物ではない場合が多いんです。色遣いが、印象的で、格子が、色に対して、景色となっているんです。
こちらの郡上紬は、その景色ですらないような程です。
格子に眼を向けるなら、確かに、経と緯の縞が、結局は”格子”となっている...、
けれども、この経と緯の縞?、縞という前に”線(それも細密なる線までも)”が並べられているだけなのです。
様々な色彩の”線”が、不規則に織り込まれること..、「やたら」に織り込まれているために、たまたま「格子」をつくっているだけのことでしかないです。
この織物..、この郡上紬では、「格子」は「たまたま」であって、意図的な景色ですらないのかもしれないんです。
数えればきりがない程の色を「やたら」に..、感性に任せて織り込むことで、この郡上紬はつくられています。
こうした色彩感性は、草木から得られた自然の彩りでもあるんです。だから、決して、強く眼に映ることはない。
「あざやか」で”さえ”ないのは、ありきたりの「あざやかさ」では尽くせない柔らかな煌彩を保っている..、
絹に染められた自然の色は、陽光に馴染み、眼に優しく映るんです。 きりがない程の色を、まるで秩序がないかのように織り込み、格別なる<ひとつの色印象>をつくっているす。 言葉では尽くせない...、言葉にしてしまうと大切なもの、この郡上紬の空気感が抜け落ちてしまうんです。
しかし、自然から得られた色だけも出来ない...、また、極上の絹糸だけでも出来る訳ではない。
織人の卓絶した感性なんだと思います。まるで、現代抽象絵画のように..、散りばめられた感性、そのひとつひとつでは意味や感動を伝えることはないけれども、制作者の美意識によって”かたち”となり、美しいほどに完成された芸術作品から響く如き感性を憶えるんです。
他の織物にはない存在感が伝わって来ます。 眼にしていると単純な色の存在感だけではないことを憶えます。
眼に感じるのは、色ではなくて、実は、織人の美意識...、だから、言葉では尽くし難い。
色彩がとても印象的で、草木染め手織紬ならではの柔らかい空気感..、そして、郡上紬ならではの質感の作品です。